삼국사기41-44권 2002/08/31 392

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三國史記卷第四十一.
輸忠定難靖國贊化同德功臣開府儀同三司檢校太師守太保門下侍中判尙書吏禮部事集賢殿太學士監修國史上柱國致仕臣<金富軾>奉宣撰.
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列傳第一.
<金庾信>上.
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○<金庾信>, 王京人也. 十二世祖<首露>, 不知何許人也. 以<後漢><建武>十八年壬寅, 登<龜峯>, 望<駕洛>九村, 遂至其地開國, 號曰<加耶>, 後改爲<金官國>. 其子孫相承, 至九世孫<仇亥{仇充}>, 或云<仇次休>, 於<庾信>爲曾祖. <羅>人自謂<少昊金天氏>之後, 故姓<金>. <庾信>碑亦云: “<軒轅>之裔, <少昊>之胤.” 則<南加耶>始祖<首露>與<新羅>, 同姓也.
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○祖<武力>, 爲<新州>道行軍摠管, 嘗領兵獲<百濟>王及其將四人, 斬首一萬餘級. 父<舒玄>, 官至蘇判<大梁州>都督安撫<大梁州>諸軍事. 按<庾信>碑云: “考蘇判<金逍衍>.” 不知<舒玄>或更名耶, 或<逍衍>是字耶, 疑故兩存之.
#41卷-列傳1-金庾信-03
○初, <舒玄>路見葛文王<立宗>之子<肅訖宗>之女<萬明>, 心悅而目挑之, 不待媒妁而合. <舒玄>爲<萬弩郡>太守, 將與俱行, <肅訖宗>始知女子與<玄>野合, 疾之囚於別第, 使人守之. 忽雷震屋門, 守者驚亂, <萬明>從竇而出, 遂與<舒玄>赴<萬弩郡>.

#41卷-列傳1-金庾信-04
○<舒玄>庚辰之夜, 夢熒或{熒惑}鎭二星降於己, <萬明>亦以辛丑之夜, 夢見童子衣金甲, 乘雲入堂中, 尋而有娠, 二十月而生<庾信>, 是<眞平王><建福>十二{七}年, <隋><文帝><開皇>十五年乙卯也.
及欲定名, 謂夫人曰: “吾以庚辰夜吉夢, 得此兒, 宜以爲名, 然禮不以日月爲名. 今庚與庾字相似, 辰與信聲相近, 况古之賢人有名<庾信>, 盍以命之.” 遂名<庾信>焉.[<萬弩郡>, 今之<鎭州>, 初以<庾信>胎, 藏之高山, 至今謂之<胎靈山>.]
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○公年十五歲爲花郞, 時人洽然服從, 號<龍華香徒>. <眞平王><建福>二十八{三十三}年辛未, 公年十七歲, 見<高句麗>․<百濟>․<靺鞨>侵軼國疆, 慷慨有平寇賊之志, 獨行入<中嶽>石崛, 齊{齋}戒告天盟誓曰: “敵國無道, 爲豺虎, 以擾我封埸, 略無寧歲. 催{僕}是一介微臣, 不量材力, 志淸禍亂. 惟天降監, 假手於我.” 居四日, 忽有一老人, 被褐而來曰: “此處, 多毒蟲猛獸, 可畏之地, 貴少年爰來獨處, 何也.” 答曰: “長者從何許來, 尊名可得聞乎?” 老人曰: “吾無所住, 行止隨緣, 名則<難勝>也.” 公聞之, 知非常人, 再拜進曰: “僕<新羅>人也, 見國之讐, 痛心疾首, 故來此, 冀有所遇耳. 伏乞長者憫我精誠, 受{授}之方術.” 老人黙然無言. 公涕淚懇請不倦, 至于六七. 老人乃言曰: “子幼而有幷三國之心, 不亦壯乎.” 万{乃}授以秘法曰: “愼勿妄傳, 若用之不義, 反受其殃.” 言訖而辭, 行二里許, 追而望之, 不見, 唯山上有光, 爛然若五色焉.

#41卷-列傳1-金庾信-06
○<建福>二十九{三十四}年, 隣賊轉迫, 公愈激壯心, 獨携寶劒, 入<咽薄山>深壑之中, 燒香告天, 祈祝若在<中嶽>, 誓辭仍禱. 天官垂光, 降靈於寶劒. 三日夜, 虛․角二星, 光芒赫然下垂, 劒若動搖然.
#41卷-列傳1-金庾信-07
○<建福>四十六{五十一}年, 己丑秋八月, 王遣伊湌<任永里{任末里}>, 波珍湌<龍春>․<白龍>, 蘇判<大因>․<舒玄>等, 率兵攻<高句麗><娘臂城>. <麗>人出兵逆擊之, 吾人失利, 死者衆多, 衆心折衄, 無復鬪心. <庾信>時爲中幢幢主, 進於父前, 脫冑而告曰: “我兵敗北, 吾平生以忠孝自期, 臨戰不可不勇. 盖聞: ‘振領而裘正, 提綱而網張’, 吾其爲綱領乎.” 迺跨馬拔劒跳坑, 出入賊陣, 斬將軍, 提其首而來. 我軍見之, 乘勝奮擊, 斬殺五千餘級, 生擒一千人. 城中兇懼無敢抗, 皆出降.
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○<善德大王>十一年壬寅, <百濟>敗<大梁州>, <春秋>公女子<古陁炤>娘, 從夫<品釋>死焉. <春秋>恨之, 欲請<高句麗>兵, 以報<百濟>之怨, 王許之. 將行, 謂<庾信>曰: “吾與公同體, 爲國股肱. 今我若入彼見害, 則公其無心乎.” <庾信>曰: “公若往而不還, 則僕之馬跡, 必踐於<麗>․<濟>兩王之庭. 苟不如此, 將何面目以見國人乎.” <春秋>感悅, 與公互噬手指, 歃血以盟曰: “吾計日六旬乃還, 若過此不來, 則無再見之期矣.” 遂相別. 後<庾信>爲<押梁州>軍主. <春秋>與<訓信>沙于{沙干}, 聘<高句麗>, 行至<代買縣>, 縣人<豆斯支>沙干, 贈靑布三百步. 旣入彼境, <麗>王遣太大對盧<盖金>館之, 燕饗有加. 或告<麗>王曰: “<新羅>使者, 非庸人也.

今來, 殆欲觀我形勢也, 王其圖之, 俾無後患.” 王欲橫問, 因其難對而辱之. 謂曰: “<麻木峴>與<竹嶺>, 本我國地, 若不我還, 則不得歸.” <春秋>荅{對}曰: “國家土地, 非臣子所專, 臣不敢聞命.” 王怒囚之, 欲戮未果. <春秋>以靑布三百步, 密贈王之寵臣<先道解>. <道解>以饌具來, 相飮酒酣, 戱語曰: “子亦嘗聞龜兎之說乎. 昔, 東海龍女病心, 醫言: ‘得兎肝合藥, 則可療也.’ 然海中無兎, 不奈之何. 有一龜白龍王言: ‘吾能得之.’ 遂登陸見免{兎}言: ‘海中有一島, 淸泉白石, 茂林佳菓, 寒暑不能到, 鷹隼不能侵. 爾若得至, 可以安居無患.’ 因負兎背上, 游行二三里許. 龜顧謂兎曰: ‘今龍女被病, 須兎肝爲藥, 故不憚勞, 負爾來耳.’ 兎曰: ‘噫, 吾神明之後, 能出五藏, 洗而納之. 曰{日}者小覺心煩, 遂出肝心洗之, 暫置巖石之底, 聞爾甘言徑來, 肝尙在彼, 何不廻歸取肝, 則汝得所求, 吾雖無肝尙活, 豈不兩相宜哉.’ 龜信之而還, 纔上岸, 兎脫入草中, 請{謂}龜曰: ‘愚哉, 汝也, 豈有無肝而生者乎.’ 龜憫黙而退.” <春秋>聞其言, 喩其意. 移書於王曰: “二嶺, 本大國地. 分{令}臣歸國, 請吾王還之. 謂予不信, 有如皦日.” 王迺悅焉. <春秋>入<高句麗>, 過六旬未還. <庾信>揀得國內勇士三千人, 相語曰: “吾聞見危致命, 臨難忘身者, 烈士之志也. 夫一人致死當百人, 百人致死當千人, 千人致死當萬人, 則可以橫行天下. 今國之賢相, 被他國之拘執, 其可畏不犯難乎.” 於是衆人日{曰}: “雖出萬死一生之中, 敢不從將軍之令乎.”

遂請王以定行期. 時, <高句麗>諜者浮屠<德昌>, 使告於王. 王前聞<春秋>盟辭, 又聞諜者之言, 不敢復留, 厚禮而歸之. 及出境, 謂送者曰: “吾欲釋憾於<百濟>, 故來請師. 大王不許之, 而反求土地, 此非臣所得專. 嚮, 與大王書者, 啚{圖}逭死耳.”[此與本言{書/記}<眞平王>十二{<善德王>十一}年所書, 一事而小異, 以皆古記所傳, 故兩存之.]
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○<庾信>爲<押梁州>軍主, 十三年爲蘇判. 秋九月, 王命爲上將軍, 使領兵伐<百濟><加兮城>․<省熱城>․<同大城{同火城}>等七城, 大克之, 因開<加兮>之津. 乙丑{乙巳}正月, 歸未見王, 封人急報: <百濟>大軍來, 攻我<買利浦城>. 王又拜<庾信>爲<上州>將軍, 令拒之. <庾信>聞命卽駕, 不見妻子, 逆擊<百濟>軍走之, 斬首二千級. 三月, 還命王宮, 未歸家, 又急告: <百濟>兵出, 屯于其國界, 將大擧兵侵我. 王復告<庾信>曰: “請公不憚勞遄行, 及其未至備之.” <庾信>又不入家, 練軍繕兵, 向西行.
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○于時, 其家人皆出門外待來. <庾信>過門, 不顧而行, 至五十步許, 駐馬, 令取漿水於宅, 啜之曰: “吾家之水, 尙有舊味.” 於是, 軍衆皆云: “大將軍猶如此, 我輩豈以離別骨肉爲恨乎.” 及至疆埸, <百濟>人望我兵衛, 不敢迫, 乃退. 大王聞之甚喜, 加爵賞.
#41卷-列傳1-金庾信-11
○十六年丁未, 是<善德王>末年, <眞德王>元年也. 大臣<毗曇>․<廉宗>, 謂女主不能善理, 擧兵欲廢之, 王自內禦之.

<毗曇>等屯於<明活城>, 王師營於<月城>, 攻守十日不解. 丙夜, 大星落於<月城>. <毗曇>等謂士卒曰: “吾聞落星之下, 必有流血. 此殆女主敗績{衄}之兆也.” 士卒呼吼聲振(+天)地.
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○大王聞之, 恐懼失次. <庾信>見王曰: “吉凶無常, 惟人所召. 故<紂>以赤雀亡, <魯>以獲麟衰, <高宗>以雉雊興, <鄭公>以龍鬪昌. 故知德勝於妖, 則星辰變異, 不足畏也, 請王勿憂.” 乃造偶人抱火, 載於風鳶而颺之, 若上天然. 翌日, 使人傳言於路曰: “昨夜, 落星還上.” 使賊軍疑焉. 又刑白馬, 祭於落星之地, 祝{呪}曰: “天道則陽剛, 而陰柔; 人道, 則君尊而臣卑. 苟或易之, 卽爲大亂. 今, <毗曇>等以臣而謀君, 自下而犯上. 此所謂亂臣賊子, 人神所同疾, 天地所不容. 今, 天若無意於此, 而反見星怪於王城, 此臣之所疑惑而不喩者也. 惟天之威, 從人之欲, 善善惡惡, 無作神羞.” 於是, 督諸將卒奮擊之, <毗曇>等敗走. 追斬之, &夷九族{連坐者三十人}.
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○冬十月, <百濟>兵來, 圍<茂山>․<甘勿>․<桐岑>等三城, 王遣<庾信>, 率步騎一萬拒之. 苦戰氣竭, <庾信>謂<丕寧子>曰: “今日之事急矣, 非子, 誰能激衆心乎.” <丕寧子>拜曰: “敢不惟命之從.” 遂赴敵. 子<擧眞>及家奴<合節>隨之, 突劒戟, 力戰死之. 軍士望之, 感勵爭進, 大敗賊兵, 斬首三千餘級.

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○<眞德王><大和>元年戊申, <春秋>以不得請於<高句麗>, 遂入<唐>乞師. <太宗>皇帝曰: “聞爾國<庾信>之名, 其爲人也如何?” 對曰: “<庾信>雖少有才智, 若不籍天威, 豈易除隣患.” 帝曰: “誠君子之國也.” 乃詔許, 勑將軍<蘇定方>, 以師二十萬, 徂征<百濟>. 時, <庾信>爲<押梁州>軍主, 若無意於軍事, 飮酒作樂, 屢經旬月. 州人以<庾信>爲庸將, 譏謗之曰: “衆人安居日久, 力有餘, 可以一戰, 而將軍慵惰, 如之何?”
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○<庾信>聞之, 知民可用, 告大王曰: “今觀民心, 可以有事. 請伐<百濟>, 以報<大梁州>之役.” 王曰: “以小觸大, 危將奈何?” 對曰: “兵之勝否, 不在大小, 顧其人心何如耳. 故<紂>有億兆人, 離心離德, 不如<周>家十亂同心同德. 今, 吾人一意, 可與同死生, 彼<百濟>者不足畏也.” 王乃許之. 遂簡練州兵赴敵. 至<大梁城>外, <百濟>逆拒之. 佯北不勝, 至<玉門谷>. <百濟>輕之, 大率衆來, 伏發擊其前後, 大敗之, 獲<百濟>將軍八人, 斬獲一千級, 於是, 使告<百濟>將軍曰: “我軍主<品釋>及其妻<金>氏之骨, 埋於爾國獄中. 今, 爾裨將八人, 見捉於我匍匐, 請命. 我以狐豹首丘山之意, 未忍殺之. 今, 爾送死二人之骨, 易生八人, 可乎.” <百濟><仲常>[一作<忠常>.]佐平言於王曰: “<羅>人骸骨, 留之無益, 可以送之. 若<羅>人失信, 不還我八人, 則曲在彼, 直在我, 何患之有?” 乃掘<品釋>夫妻之骨, 櫝而送之. <庾信>曰: “一葉落, 茂林無所損, 一塵集, 大山無所增.” 許八人生還.

遂乘勝入<百濟>之境, 攻拔<嶽城>等十二城, 斬首二萬餘級, 生獲九千人. 論功, 增秩伊湌, 爲<上州>行軍大摠管. 又入賊境, 屠<進禮>等九城, 斬首九千餘級, 虜得六百人. <春秋>入<唐>, 請得兵二十萬來, 見<庾信>曰: “死生有命, 故得生還, 復與公相見, 何幸如焉.” <庾信>對曰: “下臣仗國威靈, 再與<百濟>大戰, 拔城二十, 斬獲三萬餘人, 又使<品釋>公及其夫人之骨, 得反鄕里. 此皆天幸所致也, 吾何力焉.”

三國史記卷第四十一.

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三國史記卷第四十二.
輸忠定難靖國贊化同德功臣開府儀同三司檢校太師守太保門下侍中判尙書吏禮部事集賢殿太學士監修國史上柱國致仕臣<金富軾>奉宣撰.
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列傳第二.
(+<金庾信>中)
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○(+太和)二年秋八月, <百濟>將軍<殷相>, 來攻<石吐>等七城. 王命<庾信>及<竹旨>․<陳春>․<天存>等將軍, 出禦之. 分三軍爲五道, 擊之, 互相勝負, 經旬不解, 至於僵屍滿野, 流血浮杵. 於是, 屯於<道薩城>下, 歇馬餉士, 以圖再擧. 時, 有水鳥東飛, 過<庾信>之幕, 將士見之, 以爲不祥. <庾信>曰: “此不足怪也.” 謂衆曰: “今日, 必有<百濟>人來諜. 汝等佯不知, 勿敢誰何.” 又使徇于軍中曰: “堅壁不動, 待明日援軍至, 然後, 決戰.”
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○諜者聞之, 歸報<殷相>. <殷相>等謂有加兵, 不能不疑懼. 於是, <庾信>等一時奮擊, 大克之, 生獲將軍達率<正仲>․士卒一百人, 斬佐平<殷相>․達率<自堅>等十人及卒八千九百八十人, 獲馬一萬匹․鎧一千八百領, 其他器械稱是. 及歸還, 路見<百濟>佐平<正福>與卒一千人來降, 皆放之, 任其所往. 至京城, 大王迎門, 勞慰優厚.
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○<永徽>五年, <眞德大王>薨, 無嗣.

<庾信>與宰相<閼川>伊湌謀, 迎<春秋>伊湌, 卽位, 是爲<太宗大王>.
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○<永徽>六年乙卯秋九月, <庾信>入<百濟>, 攻<刀比川城>克之. 是時, <百濟>君臣, 奢泰淫逸, 不恤國事. 民怨神怒, 災怪屢見. <庾信>告於王曰: “<百濟>無道, 其罪過於<桀>․<紂>, 此誠順天弔民伐罪之秋也.” 先是, <租未押>級湌爲<夫山>縣令, 被虜於<百濟>, 爲佐平<任子>之家奴. 從事勤恪, 曾無懈慢, <任子>憐之不疑, 縱其出入, 乃逃歸, 以<百濟>之事, 告<庾信>. <庾信>知<租未押>忠正而可用, 乃語曰: “吾聞<任子>專<百濟>之事, 思有以與謀而未{末}由. 子其爲我, 再歸言之.” 答曰: “公不以僕爲不肖, 而指使之, 雖死無悔.”
#42卷-列傳2-金庾信-05
○遂復入於<百濟>, 告<任子>曰: “奴自以謂旣爲國民, 宜知國俗, 是以, 出遊累旬不返, 不勝犬馬戀主之誠, 故此來耳.” <任子>信之不責. <租未押>伺間報曰: “前者, 畏罪不敢直言, 其實, 往<新羅>還來. <庾信>諭我來告於君曰: ‘邦國興亡, 不可先知, 若君國亡, 則君依於我國, 我國亡, 則吾依於君國.’” <任子>聞之, 嘿然無言. <租未押>惶懼而退, 待罪數月. <任子>喚而問之曰: “汝前說<庾信>之言, 若何?” <租未押>驚恐而對, 如前所言. <任子>曰: “爾所傳, 我已悉知, 可歸告之.” 遂來說, 兼及中外之事, 丁寧詳悉. 於是, 愈急幷呑之謀.
#42卷-列傳2-金庾信-06
○<太宗大王>七年庚申夏六月, 大王與太子<法敏>, 將伐<百濟>, 大發兵, 至<南川>而營. 時, 入<唐>請師波珍湌<金仁問>, 與<唐>大將軍<蘇定方>․<劉伯英>, 領兵十三萬, 過海到<德

物島>, 先遣從者<文泉>來告. 王命太子與將軍<庾信>․<眞珠>․<天存>等, 以大船一百艘, 載兵士會之. 太子見將軍<蘇定方>, <定方>謂太子曰: “吾由海路, 太子登陸行, 以七月十日, 會于<百濟>王都<泗沘>之城.” 太子來告大王, 率將士, 行至<沙羅>之停.
#42卷-列傳2-金庾信-07
○將軍<蘇定方>․<金仁問>等, 沿海入<依伐浦{技伐浦/伎伐浦}>. 海岸泥濘, 陷不可行. 乃布柳席, 以出師. <唐>․<羅>合擊<百濟>滅之. 此役也, <庾信>之功爲多. 於是, <唐>皇帝聞之, 遣使裒{褒}嘉之. 將軍<定方>謂<庾信>․<仁問>․<良圖>三人曰: “吾受命以便宜從事, 今以所得<百濟>之地, 分錫公等爲食邑, 以酬厥功, 如何?” <庾信>對曰: “大將軍以天兵來, 副寡君之望, 雪小國之讐, 寡君及一國臣民, 喜抃之不暇, 而吾等獨受賜以自利, 其如義何.” 遂不受.
#42卷-列傳2-金庾信-08
○<唐>人旣滅<百濟>, 營於<泗沘>之丘, 陰謀侵<新羅>. 我王知之, 召群臣問策. <多美公>進曰: “令我民, 詐爲<百濟>之人, 服其服, 若欲爲賊者, <唐>人必擊之. 因與之戰, 可以得志矣.” <庾信>曰: “斯言可取, 請從之.” 王曰: “<唐>軍爲我滅敵, 而反與之戰, 天其祐我耶.” <庾信>曰: “犬畏其主, 而主踏其脚, 則咬之, 豈可遇難, 而不自救乎. 請大王許之.” <唐>人諜知我有備, 虜<百濟>王及臣寮九十三人․卒二萬人, 以九月三日, 自<泗沘>泛船而歸, 留郞將<劉仁願>等, 鎭守之. <定方>旣獻俘, 天子慰藉之曰: “何不因而伐<新羅>.” <定方>曰: “<新羅>其君仁而愛民, 其臣忠以事國, 下之人事其上, 如父兄, 雖小, 不可謀也.”

#42卷-列傳2-金庾信-09
○<龍朔>元年春, 王謂<百濟>餘燼尙在, 不可不滅, 以伊湌<品日>․蘇判<文王>․大阿湌<良圖>等, 爲將軍, 往伐之, 不克. 又遣伊湌<欽純>[一作<欽春>]․<眞欽>․<天存>․蘇判<竹旨>等, 濟師. <高句麗>․<靺鞨>, 謂<新羅>銳兵皆在<百濟>, 內虛可擣, 發兵, 水陸並進, 圍<北漢山城>. <高句麗>營其西, <靺鞨>屯其東, 攻擊浹旬, 城中危懼, 忽有大星落於賊營, 又雷雨震擊, 賊等疑駭, 解圍而遁. 初, <庾信>聞賊圍城曰: “人力旣竭, 陰助可資.” 詣佛寺, 設壇祈禱. 會有天變, 皆謂至誠所感也.
#42卷-列傳2-金庾信-10
○<庾信>嘗以中秋夜, 領子弟, 立大門外, 忽有人從西來. <庾信>知<高句麗>諜者, 呼使之前曰: “而國有底事乎.” 其人俯而不敢對. <庾信>曰: “無畏也, 但以實告.” 又不言. <庾信>告之曰: “吾國王, 上不違天意, 下不失人心, 百姓欣然, 皆樂其業, 今爾見之, 往告而國人.” 遂慰送之. <麗>人聞之曰: “<新羅>雖小國, <庾信>爲相, 不可輕也.”
#42卷-列傳2-金庾信-11
○六月, <唐><高宗皇帝>遣將軍<蘇定方>等, 征<高句麗>. 入<唐>宿衛<金仁問>, 受命來告兵期, 兼諭出兵會伐. 於是, <文武大王>率<庾信>․<仁問>․<文訓>等, 發大兵向<高句麗>, 行次<南川州>. 鎭守<劉仁願>, 以所領兵, 自<泗沘>泛船, 至<鞋浦>下陸, 亦營於<南川州>. 時, 有司報: “前路有<百濟>殘賊, 屯聚<瓮山城>遮路, 不可直前.” 於是, <庾信>以兵進而圍城.

使人近城下, 與賊將語曰: “而國不龔, 致大國之討. 順命者賞, 不順命者戮. 今汝等, 獨守孤城, 欲何爲乎. 終必塗地, 不如出降. 非獨存命, 富貴可期也.”
#42卷-列傳2-金庾信-12
○賊高聲唱曰: “雖蕞爾小城, 兵食俱足, 士卒義勇, 寧爲死戰, 誓不生降.” <庾信>笑曰: “窮鳥困獸, 猶知自救, 此之謂也.” 乃揮旗鳴鼓攻之. 大王登高見戰士, 淚語激勵之, 士皆奮突, 鋒刃不顧. 九月二十七日, 城陷, 捉賊將戮之, 放其民. 論功賞